アイカツフレンズはアイカツ!になり得なかった
アイカツフレンズアンチ記事3弾です。
2度あることは3度ある。
今回は本読んでて考えた文句です。
読んでた本は
ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)
- 作者: ニーチェ,Friedrich Nietzsche,氷上英廣
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1967/04/16
- メディア: 文庫
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ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)
- 作者: ニーチェ,Friedrich Nietzsche,氷上英廣
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1970/05/16
- メディア: 文庫
- 購入: 13人 クリック: 39回
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これです。
この中の
この文章(画像の方はネットから拾ってきた物なのでこの訳と本の文章が違う)
にフレンズがダメだった所が言われてると思うので書いていくアンチ記事です。
解説を読んで理解したので二番煎じだけど。(ちゃんと読んだので許して)
アイカツフレンズと言えばやはりフレンズ制度、言ってしまえば公式カップリングなんですけどもどう考えてもこれは劇場版アイカツスターズの成功が切っ掛けです。
初代からそういった演出はあれど、スターズ劇場版以降シリーズ内に百合の流れが強くなっていったように思います。
しかしアイカツフレンズは致命的なまでに面白くない。
アイカツシリーズの二番煎じだからです。
初代アイカツにおいては蘭ユリという集団幻覚が最も有名ですが蘭ユリもシリーズ途中で幻覚が覚めはっきりとした百合は無くなり各々オタクの妄想による補完が中心であるように思います。
初代にあった百合的描写に対して劇場版スターズは露骨、モロなんです。
あの驚きは初代ではここまで描かなかった描写、子ども向けでこんなことをやるのかという物です。
初代は優しい世界、スターズは厳しい世界と言われますが初代においてはあえて描かれなかったであろう世界の一部を描く事でスターズはアイカツ!という殻を出ようと試みました。
これらは「私を棄て、君たち自身を発見せよ」という試みです。
初代アイカツという圧倒的存在を越えるために初代とは違うアプローチを試み自身のアイカツを見つけるという。
フレンズはスターズにおいて人気のあった百合描写の真似事をするために作られた制度であり、スターズを棄てられず自身を発見しようともしない行為でした。
「私を棄て、君たち自身を発見せよ」というのはアイカツシリーズ作中に置いても重要なポイントであり、神崎美月を目指した星宮いちごはスターライトクイーンになれなかったが最終的に神崎美月と同じ高みに登った。
星宮いちごを目指した大空あかりは星宮いちごがなし得なかったスターライトクイーンになることで星宮いちごに並んだ。
星宮いちごになりたいという気持ちでは星宮いちごになれないというのは作中に置いても描かれています。
スターズでは白鳥ひめと同じ立場になった虹野ゆめはあの一期S4戦時点では自身を発見していませんでした。そのため星のツバサシリーズに置いても虹野ゆめは挑戦者として描かれました。
フレンズは一期でピュアパレット(以下PP)はダイヤモンドフレンズとなりラブミーティア(LMT)に勝ちました。しかしPPはLMTの居た場所に座っただけなのです。LMTにPPが勝った理由が外的要因なのもそう思わせるポイントです。
その後のPPは作中において誰かを教え導く事もなにもできずにいたのは自身を発見することなく椅子に座ってしまった事でLMTの下位互換と化していたのです。LMTでいいじゃんという事です。
「私を棄て、君たち自身を発見せよ」つまり
なりたいだけじゃダメであるはずのアイカツ!において
劇場版スターズになりたい。
アイカツ!みたいになりたい。
という安直な思いだけで作られたフレンズという作品はアイカツシリーズを目指した結果アイカツと呼べる物ではなくなってしまったのです。
オールスター物はまぜこぜなので知りませんし観ません。桜庭ローラちゃんが雑に消費されないことを遠くから願っています。